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(第二章のつづき)


5.前近代の日本人の世界観 ─ 幸福な社会を生きる人々が認識していた世界



 子供の通過儀礼の内容を見る中で、かつて、自然と人間がどのような関係を結び、それがどのように年中行事の中に反映され、生き生きとした幸福な社会の実現に繋がるのかというところを見てきました。ここまで見て来た前近代の日本人の世界観を整理してみましょう。

 人間の存在は、誕生と共に「自然/カミ」の世界から「人間/現実」の世界へと移行し、死と共に「人間/現実」の世界から「自然/カミ」の世界へと移行します。この往還を繰り返し輪廻転生することが民俗社会の死生観でした。
 そして、人生の中でも、年中行事や祭り、通過儀礼の折に何度もふたつの世界の往還を繰り返します。
 そうして、人間が「人間/現実」の世界を生きる中で進行する「ケガレ」を祓い浄めるために、「自然/カミ」の世界へ繰り返し赴き、人間と社会の生命力を絶えず更新しながら、この世界の健康と活力を維持していました。


5-1. ユング心理学から見た世界観

 先に、ユングは人間の心の中を「意識」と「無意識」の層に分けて研究したと述べましたが、ユングは「無意識」をさらに「個人的無意識」と「普遍的無意識」の層に分けて考えました。そして、「意識」の中心を「自我(ego)」と呼び。「意識」と「無意識」を含んだ心の全体の中心を「自己(self)」と呼びました。

ユング心理学における心の構造(河合隼雄「ユング心理学入門」(培風館 1967年)を参考にして作図)
ユング心理学における心の構造
[河合隼雄「ユング心理学入門」培風館
(1967年)を参考にして作図]


 この図のように、「無意識」が「意識」を包摂する関係にあります。つまり、私たちが日常を認識している「意識」は、世界の一部を認識しているに過ぎず、世界の多くの部分は「無意識」の中に隠されています。

 「人間/現実」(ケ)の世界は、私たちの日常の「意識」によって認識される世界であり、通常私たちはこの物質的現実世界のみを認識しています。

 一方の「自然/カミ」(ハレ)の世界は、「無意識」へ内向することによってはじめて認識される世界であり、私たち現代人にとっては、通常隠されていて認識することができません。

 しかし、古人は自らの中に、「私」(ego)という存在の他にもうひとつ、全体性を志向する「高次の私」(self)が存在すること。そして、日常の現実世界の他にもうひとつ、隠されている根源的な「自然/カミ」の世界が存在することを知っていました。


5-2. 「自然/カミ」(ハレ)の世界の本質

 「自然/カミ」(ハレ)の世界は、物質的に存在する世界ではなく、生命力の世界であり、私たちの内なる世界です。この世界は人間の心の深層にある「無意識」によって認識されます。
 ユングは、「普遍的無意識」は時間と空間を越えて人類に普遍的なものであり、個人の心の真の基礎であるといいます。そしてその内容の表現には基本的な型があり、それをユングは「元型」と呼びます。先に述べた「影」はその「元型」のひとつです。
 「自然/カミ」の世界は、ハレの時間と空間の中において、「普遍的無意識」の層へ深く内向することによって出会うことの出来る私たちの内なる世界です。

 「意識」と「無意識」を含んだ心の全体性の中心である「自己(self)」は、「自我(ego)」によって生じた対立的要素を高次の全体性へ向けて統合するように働きます。同様に「自然/カミ」と「人間/現実」の世界の関係においても、「自然/カミ」の世界は「人間/現実」の世界を包摂しており、「人間/現実」の世界において分化された諸要素に対して、高次の全体性へ向けて統合する力が常に働いています。

 古代ギリシャ哲学では、自然は「ピュシス(physis)」と呼ばれ、宇宙・本質を意味し、絶対的な存在であり、万物がそこから生成し、そこへ消滅する万物の根源・生命の元、と把握されていました。前近代の世界観における「自然/カミ」の世界も同様に、万物の生成の根源である生命力の世界であり、その本質は「いのち」です。この「いのち」の世界は、「統合」する力によって実在し、光と闇、生と死、善と悪などの対立的要素のすべてが包摂・統合され、渾然一体とした全体性を成している生命力に満ちた世界です。この世界はすべての存在の母胎であり、「人間/現実」の世界もまたこの母胎から生まれました。


5-3. 「人間/現実」(ケ)の世界の本質

 「人間/現実」(ケ)の世界は、「自然/カミ」の世界を母胎として生まれ、その世界に包摂されています。「人間/現実」の世界を生きる日常の私たちは、「意識」によってこの世界を認識しています。そして「意識」の中心である「自我(ego)」の力によって、私たち人間は物質的・客観的現実世界を創造的に生きることが出来ます。
 「自我(ego)」の本源的な機能は、物事を分けることです。混然一体となった混沌の状態から、物事が分化されることによって、私たちの生きるこの物質的世界が認識され、言葉が生まれ、思考や感情が生まれ、かたちある物事が表現され、物事を創造することが可能になります。この世界の本質は「かたち」です。
 「自我(ego)」はその機能によって、この「人間/現実」の世界をかたち作る一方で、同時にその機能によって人間と自然を分け、自分と他者を分け、善と悪、光と闇、生と死を分けてこの世界を分化して行きます。そしてこの現実世界は人間にとって都合の良いものと悪いものに分けられ、都合の悪いもの、つまり「影」はこの社会から人間によって排除・抑圧・制御されて行きます。このように「自我(ego)」の力によって、「人間/現実」の世界は人間だけにとって快適で都合の良い世界に作り変えられて行きます。


5-4. 「自然/カミ」の世界と「人間/現実」の世界の関係

 「人間/現実」の世界と「自然/カミ」の世界、このふたつの世界は相反する原理に基づいて存在し、相補的な関係を成しています。


「世界観」 「いのち」の世界は「かたち」の世界を包摂し、相互の世界は相補的な関係にある
「世界観」
「いのち」の世界は「かたち」の世界を包摂し、
相互の世界は相補的な関係にある


「自然/カミ」の世界の本質は「いのち」です。「いのち」は物事を「統合」することによって生まれ、「分化」することによって失われます。この世界には、「いのち」は満ちていますが「かたち」が生成されることはありません。

 一方の、「人間/現実」の世界の本質は「かたち」です。「かたち」は物事を「分化」することによって生まれ、「統合」されることによって失われます。この世界には、「かたち」はありますが、「いのち」が生成されることはありません。

 ふたつの世界は、それぞれ「統合」と「分化」、「いのち」と「かたち」という相反する機能・本質を持ち、お互いの世界を相補う形で存在します。  但し、相補的な関係にあるといっても、あくまでも「自然/カミ」の世界が「人間/現実」の世界を包摂する主従関係にあり、主たる「自然/カミ」の高次の全体性へと統合する力は、従たる「人間/現実」に対しても及んでいます。


5-5. 「ケガレ」の本質

 ケガレという語の一般的な意味は「きたないこと。不潔。不浄」などですが、この世界観の中でのケガレの意味は、それとはだいぶ異なります。
 「ケガレ」は「気枯れ」であると先に述べましたが、「気枯れ」とはひと言でいえば「いのち(生命力)が減退・枯渇して行く状態」を意味します。
 「ケガレ」は、人間にとって都合の悪いものが人間によって排除・抑圧・制御されることによって生じ、進行します。人間が、排除・抑圧・制御することで、全体性が失われ、均衡が崩れ、この世界から「いのち」が失われて行きます。
 「人間/現実」の世界は、分化することによって生まれた世界ですから、物質としての「かたち」はありますが、この世界で「いのち」が生成されることはありません。つまり、「人間/現実」の世界は、「いのち」がいずれ枯渇する運命にある世界であり、「ケガレ」行くことが宿命づけられた世界です。
 「いのち」は物事を統合することによってのみもたらされるものであり、「いのち」をもたらすことができるのは「自然/カミ」だけです。
 人間はこの世界に「ケガレ」をもたらす唯一の存在であり、人間が存在するが故にこの世界は「ケガレ」て行きます。何故なら、「自我(ego)」を持ち、自然の摂理に反し、この世界を分化する存在は人間以外には存在しないからです。


5-6. 何故この世界から「悪」を根絶することができないのか。そして何故「ケガレ」が災厄を招くのか。

 私たちの生きる「人間/現実」の世界は、「自然/カミ」の世界を母胎として生まれました。「自然/カミ」の世界はすべてを包摂し、統合し、全体性を成す世界ですから、そこには善も悪も、光も闇も、生も死も、すべてが包摂され、統合され、渾然一体を成しています。
 そして、「自然/カミ」の世界から生まれ、その一部であるこの「人間/現実」の世界においても同様に、善も悪も、光も闇も、生も死も、それらすべてが存在します。そして、この現実世界において分化されたそれらは、対立関係にあるように見えても、元は一体であったものであり、それらすべてに存在する理由があります。例え人間にとって都合の悪いものがあったとしても、それを排除することはできません。

 ユングは「影」は根絶できないものであるといいます。例えば、私たち人間は社会から「悪」を排除しようとしますが、ユングはそれは不可能だと断言します。人間によって排除・抑圧・制御されるものは、無意識内の「影」となり、実体化する機会が低くなるほどに、暗く濃密なものとなり、圧倒的な力を持ち、自我を驚愕させる極端なかたちで表出するといいます。
 排除・抑圧・制御されるものとは、例えば「悪」であり、「闇」であり、「死」であり、「自然」などになるでしょう。
 しかし、例えば「悪」の中には、性、暴力、騒乱などの要素がありますが、それらには魅惑があり、謎めいた力があり、それは力動を伴った生命力の源でもあります。社会にとって不都合なものであったとしても、「悪」の中にさえ、人間の生存を支える存在意義があり、寧ろそこにこそ生命力が隠されています。この世界を「善」で満たし「悪」を排除してしまえば、この世界の生命力は失われてしまいます。闇にあってこそ光は輝き、死があってこそ生が息づくように、自然から与えられたものには、そのすべてに存在理由があり、意義があり、世界はその全体性によって調和と均衡が保たれています。

 自然から生まれた、自然の一部である人間が、自らの都合で「影」を排除・抑圧・制御し、その人為が上手く行くように見えたとしても、実際にはそのことによってこの世界の均衡が損なわれ、不安定な状態に陥ることになり、やがて自然が本来の均衡を取り戻すべく、大きな揺り戻しが起きることになります。つまり人為、そして人間の欲望の力が大きくなれば、「影」はより暗く濃密になり、「ケガレ」の程度は大きくなり、「影」、つまり「悪」「闇」「死」「自然」などは、必ず元の均衡を取り戻すべく、強制力を持ってこの世界を揺り戻し、その存在を現します。ですから前々項で、「『人間/現実』の世界は、人間の力によって人間だけにとって都合の良い世界に作り変えられて行く」と述べましたが、古人はそのような人為を戒めました。人間の都合だけで世界を作り変えることが、この世界の均衡を崩し、やがて「自然/カミ」の揺り戻す力によって災厄となって表出し、それを避けることは出来ないことを知っていたからです。

 人間は「自我(ego)」の分化する力によって、言語を生み、思考し、物事を判断し、この世界を創造性を持って生きることが出来ます。しかし同時に、人間はその「自我(ego)」の分化する力によって、必然的に「影」を生み、世界の均衡を損ない「ケガレ」を生む存在でもあります。
 そのような人間の生来の業を、古人はわきまえていただけでなく、この世界における自然と人間の関係のあるべき姿、そして人間の果たすべき役割をもわきまえていました。
 ですから、古人は自然から人間に与えられたものすべてを恩寵として受け取りました。それが例え人間にとって不都合なものであったとしても、それらを排除するのではなく、それらの力と折り合いをつけることに努めました。

 この世界に人間が存在する限り、ケガレが生じることを避けることはできません。ですから古人はケガレの進行が災厄を招く前に、先回りをしてケガレを祓い浄め、自然と人間の力の均衡を回復し、生命力を再生することを社会生活の中で最も重要なものとしていました。

 古人は、「自然/カミ」の生命力が尊いものであると同時に、暴走すれば怖ろしい力であることも知っていましたので、社会生活をハレとケに分け、祭や通過儀礼などのハレのための特別な時間と空間を社会の中に位置付け、生命力の暴走から社会を守りながら、同時に生命力を社会に導くための、儀式という聖なる領域を設け、日々の暮らしの節目節目に「自然/カミ」の世界へ赴き、ハレとケの往還を繰り返しました。そしてその中で、「影」を表現し、意識化し、体験することを通して「影」を統合する機会を作り、ケガレを祓い清め、生命力の再生に努めました。そして、そこに多くの時間と空間と労力を投入し、社会生活の律動を形成しました。

 このようにして、古人は現実世界における自然と人間の力の均衡を図り、全体性を保ち、社会全体の幸福と生命力の維持を図りました。それが、自然と人間が共に栄え、幸福な社会を作るための唯一の方法であることを知っていたからです。

 前近代の社会においては、多くの人が自然と触れ合う純粋経験と、その深い感受性によって、その世界観と自然の摂理、そして人間のあるべき生き方・暮らし方を感覚として共有していました。そして、それを元にして長い年月を掛けて培った社会形成を伴った文化的叡智により、幸福な社会を実現していたのです。


6.新たな時代のための哲学として


 ここまで、前近代の日本人と自然との関係、そしてその関係を元にした世界観について考察して来ました。それら自然と人間の関係性や世界観を支えていたのは、古人の優れた感受性でした。
 目に見えないものを見、聞こえない声を聞き、それらをリアルなものとして信じることのできる感受性と内的な力によって、かつての幸福な暮らしと社会のあり方は支えられていました。

 現代に生きる私たちは、かつてのような優れた感受性を失ってしまいました。しかし、このような時代にあっても、私たちにもまだできることはあるでしょう。ここまで考察して来たように、かつての社会習俗のあり方や、彼らの振る舞いから、かつて共有されていた世界観を、私たちは想像し、意識化し、それを言葉にし、意味付けることができます。
 失った古人の世界観から学び、そこに私たちなりの新たな哲学と、変革の可能性を見出すことは可能です。

 この世界はなぜ存在するのか、人間にはどのような存在理由があるのか、そのような人間存在の根源となるものや社会の習俗・行動規範の背景にあるものについて、次節において総括して想像を巡らしてみましょう。


7.古人が共有していた「世界観」、そして「自然とのあるべき関係」


 人間とこの現実世界は、母なる自然から生まれました。
 母なる自然は、存在のすべてを包摂し、全体性を有し、生命力に満ちた混沌とした「いのち」の世界です。
 しかし、それは物質的には存在しない「無」の世界です。

 ある時、母なる自然は自らの世界を分け、そこに物質的な存在である現実世界が生まれました。
 自然は、その現実世界の中に、世界の均衡を壊す力を持った人間を敢えて生み出しました。

 自然が人間を生んだ理由を私は想像します。
 自然は人間に対してあることを託したのではないかと。
 それは、かたちを持たない自然が、自身の力ではできないこと。自我を持った人間でなければできない、次のようなことなのではないだろうかと。

 「人間が、自然からの恵みを感謝と共に受け取り、その恵みと人間の創造性によって、自然が喜ぶかたちで現実世界を創造すること。
 自然と人間、ふたつの力でかたち作るこの世界を深く味わい、体験すること。そして、この世界に存在するすべてのものたちと共に、この美しい世界に生きることの喜びと幸福を共有すること。」

 自然は、人間と共に喜びと幸福を感じることを願い、この世界に人間を生んだのだと思います。

 そして、古人は母なる自然から託されたその願いを感受し、託された願いのままにこの現実世界を創造し、生きたのだと思います。

 そのようなあり方は、かつての社会と暮らしの隅々にまで行き渡っていました。
 前近代に作られたものたちを見ると、衣食住と暮らしのすべては、自然の声に耳を傾けることで営まれていたことが分かります。

 衣服も、食べ物も、住む家も、生活用具も、土木工事のあり方も、すべてのものは、自然の声に耳を傾けて作られていました。

 人間が使う物であっても、それは人間だけのために作られるのではなく、自然が喜ぶように作られ、そのいのちが十全に生かされるように扱われていました。

 惜しみなくたくさんの手間を掛けて、自然の素材が生かされるように、自然の素材が喜ぶように、周囲の自然環境と調和するように、工夫が凝らされ、自然の内発的美しさを伴ったものたちが生み出され、それらはとても丁寧に手入れが施され、大切に扱われていました。

 かつての労働の多くは自然と関わるものでした。
 自然と関わる労働の多くは、身体を伴い、危険を伴い、死を身近に感じるものでしたが、直に自然の生命力に触れ、その労働自体が喜びと充実感を伴うものでした。
 身体の感覚を研ぎ澄まし、身体の内なる自然の声を聞くことで技を磨き、労働は身体の喜びと共にありました。自然と人間が共に喜ぶ結果をもたらすものが、前近代の労働のあり方でした。

 自然と人間の関係はそれだけではありませんでした。
 自然の摂理のままに生きることの出来ない人間という存在によって、この世界にはケガレが生じ、その進行によって災厄を招きます。古人はケガレが災厄を招くことのないように、社会の中にハレの時間と空間を設け、母なる自然をもてなすことでケガレを祓い浄めました。音楽を奏で、神話を演じ、詩歌を謡い、舞い踊り、競技を奉納し、性を解放し、供物・贄を捧げ、母胎へと回帰し、死と再生を体験し、祈り、祝福し、交流し、母なる自然に喜んでもらうために惜しみなく力を尽くしました。
 そして自然もまた、人間に幸福と生命力を惜しみなく与えました。

 自然と人間とのあいだにこのような関係が作られることによって、かつての美しい風景と幸福な暮らしが実現されていたのです。




 「逝きし世の面影」には、当時の日本人の特徴的な心性が次のように綴られています。

 「死ぬことをひどく怖れたり、嫌ったりしない」
 「生を無欲に気楽に楽しむ」
 「要求が低い」
 「開放的で隠すことがない」
 「性を抑圧しない」
 「不幸を甘受する」
 「労働を喜びとする」
 「馬・牛・犬など生類を仲間として大切に扱う」
 「神秘の世界と交感する」
 「自然への生き生きとした愛」

 これらは、古人が真なる世界観を感受することで、心の中に自ずから生まれ、皆に共有されていた心性でした。

 思えばこれらのことは、人間以外の生きものたちを見れば、ずっと変わらない当たり前のことであるようです。




(注)
(1) 宮田登他「共同討議 ハレ・ケ・ケガレ」(青土社 1984年)
(2) M・エリアーデ「生と再生」(東京大学出版会 1971年)
(3) 柳田國男「日本の祭」(弘文堂 1942年)
(4) A・サミュエルズ他「ユング心理学辞典」(創元社 1993年)