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伝統構法、そして伝統的日本家屋は、日本の伝統文化と共に長い年月を掛けて培われてきたものであり、その背景には前近代の日本人が共有していた世界観が存在します。この章ではその世界観について考察します。
家のあり方には、その時代々々を生きる人々の内的な世界が投影されています。 現代の家と、百数十年前の前近代の家とでは、構造・間取り・意匠・設いが大きく異なります。それは、現代の日本人と、前近代の日本人の内的世界が大きく異なることを意味しています。
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「百年前の日本」(セイラム・ピーボディー博物館蔵 モース・コレクション/写真編 小学館 より) |
私たちは一般的に、前近代の封建社会において、庶民は自由がなく、圧政に苦しめられ、テクノロジーは未熟であり、貧困で厳しい暮らしを余儀なくされていたと想像しがちです。しかしこの著作には、現代よりも遥かに制約の多い社会制度と生産性の低いテクノロジーの中にありながら、貧困や悲惨や野蛮さよりも寧ろ、現代人である私たちにはほとんど信じられないような、素朴で美しく、幸福に満ちあふれた人々の暮らしや社会風景が描かれています。そして明治維新以降、この国が近代化に勤しむことで失った大切なもの、心の豊かさ、本当の幸福な暮らしのあり方がひとつひとつ丁寧に明らかにされます。 私は、この著作に描写されていることは真実であると思います。そしてその時代は、現代よりも遥かに社会に幸福感が満ちていたことは間違いないと思います。 では、どうしたら私達はこのように生きることができるのでしょう。 それを探求するために、前近代、主に江戸時代後期の日本人が認識していた、この世界の本質や根本原理について考察します。その手掛かりとして、まず「自然と人間の関係」に着目したいと思います。
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「世界観」 自然の一部としての人間 |
しかし一方で人間は、人間と自然、自分と他人とを区別する「自我」と呼ばれる意識を持ち、人間以外の生き物たちとは異なる面を持つ存在でもあります。 人間は自然の一部でありながら、自らの都合で自然に手を加え、自然を大きく改変し形成することもできる特別な存在です。現代人のように、自らの生存環境が脅かされるところまで、自然環境を破壊してしまう力を持っています。 それでは、自然の一部でありながら、他の生きものたちとは異なる特別な力を持ったアンビバレントな存在として、前近代まで、先人たちは自然と共生し、環境を美しく保ち、幸福に生きるために、どのように自らの力と折り合いをつけて暮らしを営んでいたのでしょう。
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「世界観」 ハレの世界とケの世界の往還 |
この世界観が実感を伴って共有されていた時代には、人々はケガレの状態が進行することは災厄を招く、という自然の摂理をも共有していました。「自然/カミ」(ハレ)の世界と「人間/現実」(ケ)の世界を往還し、ケガレを祓い浄めながら二つの世界の均衡を保ち、双方の世界を健やかに保つことが、幸福に暮らすために何よりも大切なことであるという認識を共有し、暮らしを営んでいました。 ケガレを祓うために、「自然/カミ」(ハレ)の世界と「人間/現実」(ケ)の世界を往還する、その典型的なかたちは「祭り」や「通過儀礼」の中に見られます。 通過儀礼とは、人生の節目である妊・産・生・冠・婚・厄・祝・死などの折りに繰り返し行われる儀礼であり、誕生から死に至る過程で「自然/カミ」の世界と「人間/現実」の世界を何度も往還します。 それが具体的にどのようなかたちで行われていたのか、分かりやすい例として、ここでは子供の祭りと通過儀礼の内容について考察します。
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「世界観」 「自然/カミ」の世界と「人間/現実」の世界の往還/輪廻転生 |
またお籠もりでは、子ども達だけで幾晩も親を離れて寝起き飲食を行っていました。そしてその中で、子ども達が夜の「闇」を体験することにも大切な意味がありました。夜はカミの時間であり、子ども達にとっては怖ろしい時間ですが、だからこそ大切な意味がありました。自然の摂理の中では、植物の種が土の中で発芽するための力を蓄えるように、動物たちが冬籠もりするように、生命力は暗い場所に籠もることで更新されます。 柳田国男は、本来は「籠もる」ということが祭りの本体であったと述べています。 人がカミの御前で夜通しもてなし奉仕することが祭りの本来の姿であり、近代になって祭りが形骸化されるまでは、夜の闇の中でカミをもてなし、カミから生命力を付与される体験こそが祭りの本体でした。 闇に籠り、「死と再生」を体験し、生命力を更新することが本来の祭りのあり方だったのです。その祭りの最後には、小屋や形代が燃やされ、あるいは川や海に流されます。燃やすこと、水に流すことは、カミの依り代を「自然/カミ」の世界へ送ることであり、ここでも子ども達は象徴的な「死」を体験します。これは、カミへ供犠を捧げる行為でもあり、「自然/カミ」(ハレ)の時間の終わりにはその跡形を残さず、無に帰し、供犠となった形代と引き替えに子ども達は生命力を携えて、「人間/現実」の世界へと帰還するのです。 4-3. 子供の祭りと通過儀礼の特徴 その三 「競技や対抗の要素、社会の秩序性とは相容れない反社会的な言動が容認され、唱え言や性的・猥雑な文句を大声で唱える、楽器を打ち鳴らして騒音を発す、呪力のある棒を持って、大地・家・嫁などを叩きながら祝福・呪詛の言葉を述べる、餅や銭などをねだったり、盗みや物乞いを伴う」 「自然/カミ」の世界の中では、社会の秩序性から逸脱した反社会的な言動が容認されます。より端的に言えば、子ども達に敢えて「悪」の体験をさせるのです。子ども達の行事において「自然/カミ」の世界の中で何故あえて反社会的な言動、「悪」を体験させるのでしょうか。 このことを考察する中で、この国の前近代の世界観の本質が見えて来ます。 スイスの心理学者ユング(Carl G. Jung 1875~1961)は、人の心の働きを研究する中で、人の意識を、「意識」と「無意識」に分けて心の深層を分析探究しました。 ユングは無意識の中に存在する代表的なものとして「影」(shadow)を挙げ、それを次のように説明します。「影」とは、人格の否定的側面、隠したいと思う不愉快な性質すべて、人間本性に備わる劣等で無価値な原始的側面、自分の中の他者、自分自身の暗い側面などである、と。 そして「影」は無意識の普遍的な層にも含まれる根絶できないものであり、それは実体化する度合いが低くなればなるほど、より暗く濃密になり、もしそれが抑圧され孤立するなら、気づかぬうちに表に突然あらわれやすく、そして秩序立った自我を驚愕させ、圧倒する力を持つ。さらに、「影」は身近な人に対する強力で非合理な投影となって現れ、個人的な好き嫌いだけでなく、残酷な偏見や迫害をも生じさせる。そして「影を認めることは、影の強制的な支配力を断つことである」といいます。 ユングのいう「影」とは「そうありたいという願望を抱くことのないもの」。つまり、心の中にある悪や闇や死などのマイナスイメージを持たれるものの総体です。それら、私たちの無意識の中にある悪・闇・死などは、意識化される機会がなければ極端な形で現実の世界に表出するか、若しくは私たちの心に強制的な支配力を行使します。それゆえ心理療法では普段意識化されることのない無意識の中の「影」を、夢分析や箱庭などを通して意識化し、「影」と直面することを目的のひとつとするのです。 このように考えると、祭りや通過儀礼は、無意識の中にある「影」、つまり悪・闇・死などを表現し、敢えて体験させ、「無意識」の内容を「意識」化させることによって、「自然/カミ」の世界と「人間/現実」の世界、双方の世界を健康に保つ働きをしていたことが分かります。 |
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