棟梁オススメの一冊③

今回の棟梁オススメの一冊は、

【気流のなる音】

真木悠介著 筑摩書房

です。

この本を読んで、違う「世界」を生きたいと思いました。

私のように、今生きている「世界」に少しいずらさや違和感を感じている人には読んでみて欲しい一冊です。

私が生きているこの「世界」

この「世界」がすべてだと思うことをやめてみようと思います。

この「世界」は、大きな海に浮かぶいくつかの島のひとつの「世界」で、

あちらにもこちらにも、他の「世界」があるとしたら?

この本の中で、人類学者のカスタネダが、

インディアンの呪術師ドンファンの生きる「世界」の捉え方・生き方のレッスンを学んでいきます。

カスタネダは私であり、

この本を読み終わると私の「世界」の捉え方も揺らいでいます。

ドンファンの世界観と、昔の日本人のそれは似ていると思います。

というより、今あたり前となっている近代文明社会が特殊なのかもしれない、とも感じます。

彼らに見えていたものが私に見えないのはなぜ?

彼らが聞こえていた声が私に聞こえないのはなぜ?

彼らが感じていたものが私に感じられないのはなぜ?

彼らは未文化人で発展途上。原始的で後れている?

占いやまじない、儀式で病気や災害、政治を行うなんてばかげている?

何が正しい・正しくないかは置いといて、

こういう捉え方・生き方もあるという話です。

彼らの「世界」と私の「世界」の違うところ、ひとつ目は

”ヒトとモノの関係”です。

私の「世界」では、ヒト(人間)とその他のモノ(動物・植物・自然)を完全に区分されて考えることがあたり前です。

彼らの「世界」では、ヒトとモノの境界が曖昧。

人間と動物、人間と植物、人間と自然、それらは平等です。

目の前の人が苦しんでいれば、手をさしのべるように

目の前の動物が苦しんでいれば、同じように助けます。

人間を殺すことは罪であり、そんなことは恐ろしいことだと思うのと同じように、

木を殺すことも罪であり、そんなことは恐ろしいことだと思っていたのでしょう。

私が「空が泣いている」と表現するとき、

それは空を擬人化したイメージで表現しています。

彼らが同じ言葉を表現するとき、

それは空を人にみたてた表現ではなく、素直に本当に空が泣いているからそう表現します。

同じ表現であっても、ここには大きな違いがあります。

そんなヒトもモノも平等で混ざり合っていた世界を生きていたからこそ、

カラスの予言や風の囁きなどの声なき声を聞き取ることができました。

ヒトはヒトの世界を作るために、

ヒト以外のモノとの関係を断ち切りました。

完全に排他してしまいました。

だから、ヒトのためにモノを利用することができるようになりました。

ヒトのために罪悪感を感じることなく、モノを殺すことができるようになりました。

カエルが雨を知らせてくれる

ミミズが地震を予告する

などの言い伝えがありますよね。時々、おばあちゃんも言っています。

人間では感じることができない些細な温度・湿度・風向き等の変化を、

それに気づくことができる動物や植物たちに教えてもらっていました。

しかし、私たちはそれをテクノロジーの発達によって代替させてきました。

カエルがいなくても気象予報も正確にできるようになりました。

ミミズがいなくても緊急地震速報を受け取れるようになりました。

それまでの昔の仲間との関係を断ち切り、

ヒトの都合の良いようにヒトがつくったテクノロジーと手を組むことを選んだのです。

ヒトは他のモノよりも優れている。

そんな感情が、ヒトを孤立させていきました。

私の「世界」では、人は特別です。

彼らの「世界」では、人も動物も植物も自然も、平等です。

彼らの「世界」と私の「世界」の違うところ、ふたつ目は

”世界の捉え方・見方”です。

私の世界は「言葉」によって構造化された、目の「世界」

彼らの世界は「言葉」の必要ない音や香りや触感に溢れた広い感覚の「世界」

彼らの世界には「言葉」がない、ということではなく、

「言葉」の必要ない世界も生きている、ということです。

「言葉」は、カオスな世界に秩序を定めます。

「世界」を理解するルールを作り上げます。

「言葉」を知ること、「言葉」によってこの世界を把握することが、完全な状態。

だから、「言葉」をよく知らない子どもは、

この社会を生きる大人になるために、多くの「言葉」を学ぶことが大事だと教わります。

でも実は、「言葉」は”分ける”ということでもあり、

分けられたものだけしか見えなくなるという欠点があることを、つい忘れてしまいます。

「言葉」のついていないものは、”ない”のです。

同様に、私の「世界」は目の世界であると言えます。

目の世界が唯一の「客観的な」世界であると思っています。

焦点を合わせて見るということは、

一点に集中して、その周りは見ないということです。

つまり、”木を見て森を見ず”ということ。

見ていない、無視している部分があるということです。

これは、テレビと同じです。

テレビが映す場面は一部分にすぎないのだけれども、

それをすべてだと勘違いしてしまうことはよくあります。

彼らは、影や、対象の背景である<地>をも見ます。

その見方は、目をつぶって見ないのではなく、

目に疎外されない見方です。

焦点を合わせないで見る。

そうすると、普段は気がつかない予期せぬチャンスをつかまえることができると言います。

「言葉」にしても目にしても、

私の「世界」はとても限定的な世界の捉え方だと思いました。

私は、「世界」を「言葉」と目によって限定された一部を見ます。

彼らは、「世界」を耳や鼻、舌、触覚をも最大限に用いて、「言葉」以前のものも見ます。

彼らの「世界」と私の「世界」の違うところ、三つ目は

”「生きる」重点の置く場所”です。

私の「世界」では、未来に重点をおきます。

将来の目的や理想のために、学校教育や仕事など多くのことが行われます。

彼らの「世界」では、現在に重点をおきます。

歩むその一歩一歩の充実があるので、目的地にこだわりません。

理想の生活を送るために・・・

理想の会社で働くために・・・

理想の家庭を持つために・・・

理想の老後を過ごすために・・・

よくよく耳にする言葉です。

私は学校で、電車の窓に張ってある広告で、

雑誌で、お店に並ぶ商品のパッケージやポップで、テレビCMで、

私を取り囲むあらゆるものによって、

ずっとこう信じてきました。

「理想」の自分になれれば、

「目的」を達成出来れば、

素晴らしい未来が待っている。

自分もいきいきとして、周りの人からも認められる。

仕事(学校)も生活も人間関係もみんなうまくいく。

私は誰かの描いた「理想」になるために、

高い「目的」を定め、その「目的」に到達するために、

多くのかつての今を費やしてきた気がします。

でもその「理想」は高く、いつも届きませんでした。

そのたびにわたしは自分のふがいなさを責めました。

努力が足りなかったからだと、自己を卑下してきました。

未来に重点を置くこの「世界」は、正直少し疲れます。

ドンファンは、こう言います。

「知者は行動を考えることによって生きるのでもなく、

行動を終えた時考えるだろうことを考えることによって生きるものでもなく、

行動そのものによって生きるのだ」

「所有や権力、「目的」や「理想」といった、

行動をおえたところにあるもの、道ゆきのかなたにあるものに、

価値ある証しはあるのではない」

昔の人の旅も、そうだったと思います。

今よりもずっと長い時間をかけて自分の足で歩く旅は、

目的地へ到着することよりも、その道中を楽しんだんだと思います。

「理想」や「目的」を持ちそれに向かって努力することは

間違いじゃないと思います。

一方で、今感じている、今見ているものごとを

全力で味わい楽しむことも大切だと思いました。

「目的」を求めるための今、

よりも、

充実した今の積み重ねの向こうに、

「目的に近いもの」があればいいなぁと思います。

私の「世界」では、理想のための今を生きます。

彼らの「世界」では、今のために今を行きます。

少しここで、狩りの話をしたいと思います。

ドンファンとカスタネダが狩りに行くときの話を読んで思ったことです。

動物の狩りをするとき、人間はその動物の習性を利用します。

朝より夜活発に行動するとか、この音がするとこっちへ移動するとか。

その習性を利用して罠をかけます。

私は人であり、常に捕食者であるから今まで考えたこともなかったのですが、

もし私が獲物だったら?

ということをドンファンによって考えさせられました。

朝になると動きだし、7時・12時・18時になると食事をします。

東京で事務職をしていたときはなおさら、毎日決まった時刻に決まった電車。

私を狩ろうとする狩人がいたら、きっと罠を仕掛けるのは容易だったでしょう。

私は何によって行動しているのか?

またはさせられているのか?

時間に決められているのか?

それともテレビなどのメディアに決められているのか?

他人や外部のものによって行動していると、

知らない間に大事なものを狩られているかもしれないと思いました。

もしかしたら、大きな企業によって

もうすでに獲物にされているのかもしれません。

ドンファンは、

「人びとは人のすることをすることで大忙しだ」

と言います。

その通りだと思います。

テレビやSNS、ネットの情報によって人の行動を見て、

自分もそれをやろうと思ったり、そこへ行こうと思ったりします。

確かにそれは安心を与えてくれます。

「多くの人がやっていることだから」と。

さらに、責任を伴いません。

「私だけじゃなく、他にもみんなやっているから」と。

自分で行動を選択し、その選択の責任を持つ

ということが、実は意外にも難しい世の中なのかもしれません。

難しいかもしれないけれど、

それをしないと、簡単に罠にかかってしまいます。

私の行動は、私の選択によってされているのか?

よく考える必要があると思った狩りの話でした。

彼らの「世界」と私の「世界」の違うところ、四つ目は

”死との生き方”です。

私の「世界」では、死はできるだけ遠ざけたい存在です。

彼らの「世界」では、死はすぐそばにある存在です。

私はいつか死にます。

それは逃れられない事実として理解し、認めています。

しかし、死ぬのは平均寿命を生きてからだと思っています。

それまでは、病気にかかったら治療するなどして少しでも生きようとするでしょう。

それまでは、死についてあまり考えないでしょう。

彼らは少し違います。

人間の力を超えた呪術を使うときは、死と隣り合わせです。

年齢に関係なく、いつ死んでもおかしくない状況で生きています。

それを、辛いとか理不尽だとは思いません。

彼らは、死んだあとも魂は別の「世界」で生き続けると信じています。

死は生につながっていくから、嫌うものでも怖れるものでもないと思っています。

彼らの生き方は、

 死をすぐそばに感じながら、

 自らの決定する力によって選択していく

というたったそれだけです。

そしてその選択の判断は、

<心のある道>であるかどうか

ということだけです。

生きることや生活に「意味がある」かどうかは関係ありません。

それは、

「外的な「意味」による支えを必要としないだけの、内的な密度をもっているから」です。

ドンファンは言います。

「死すべきわれわれ人間にとって、

どのような道もけっしてどこへもつれていきはしない。

道がうつくしい道であるかどうか、

それをしずかに晴れやかに歩むかどうか、

<心のある道>ゆきであるか、それだけが問題なのだ」

私の「世界」では、死のない生を生きます。

彼らの「世界」では、死があるから生きます。

以上、私と彼らの「世界」の違いを比べてみました。

ひとつの世界に入り浸りになり、

その世界がすべてだと想う(絶対化する)ところから脱出するには、

相対化する別の「世界」を知ることが必要です。

今回、この本によって

呪術師ドンファンの生きる「世界」を知り、

私の「世界」、つまり多くの人が生きているこの「世界」は、

いくつかある世界のうちの

ひとつに過ぎないのかもしれないと思いました。

これは、太陽が地球の周りを回っている

と考えるところから、

地球が太陽の周りを回っている

と考えるようなものなのかもしれません。

そんなこと、信じられない。

この生きている、見えている「世界」が全てだ。

と思っている私もいます。

それでも、私の「世界」をたった一つの

唯一の「世界」だと思いたくない

と思うのは、この「世界」がさびしいからです。

私は、人とのつながりが希薄だと思います。

表面上のつき合いはあっても、すべてを話せる人はいません。

家族にだって、なんでも頼れるわけではありません。

嫌なわけではありませんが、事実として

孤独はいつも感じます。

きっと、この「世界」になってからなんだと思います。

著者は、

「人間を自然から切り離しこれと対立することは、

人間相互をもきりはなし壁をめぐらし合うことだ」

と述べています。

人間と自然の関係は、人間と人間の関係。

私が人との関係が希薄なのは、

自然との関係が希薄であるからなのだと思います。

「ニワトリが仲がいいのは、飼っている人間どうしが仲がいいからだ」

「ちゃんときれいにされている庭であれば、その家族は信頼できる」

これらの話は、一見因果関係もないただのこじつけにも聞こえます。

でも、もしかしたら実際にそうである話かもしれないです。

著者の言葉を借りれば、

「殺風景な社会はかならず自己の周囲に殺風景な自然を生み出す」

であるのなら、

豊かな社会は豊かな自然を生み出しますよね。

私は、ドンファンや昔の日本人の「世界」を生きたいです。

そちらの方が、幸せだと思うからです。

ある人の事物や人間や情景に感応するときの感覚力が、

周囲の人の感覚をも解放するという伝染性をもつということが言われています。

ドンファンの「世界」の方で生きようとする人たちの数は少ないかもしれないけれど、

少しずつ広がっていけばいいなと思います。

親方に勧められこの本に出会えたおかげで、

私も変わりたいと思いました。

彼らの「世界」と私の「世界」の違うところ、ひとつ目で紹介した、

”ヒトとモノの関係”を覚えていますか?

文明のためにヒトとモノを分けた私の「世界」と

ヒトもモノも一緒だった彼らの「世界」

文明社会の私の「世界」では

”人間だからできる=他の動物じゃできない”

という意識が潜んでいます。

ヒトとモノどころか

ヒトとヒトでも、

”日本人だからできる=外国人じゃできない”

”大卒者だからできる=高卒者じゃできない”

”健常者だからできる=障害者じゃできない”

など、区別がたくさんあります。

これは、管理しやすくするためだったり、

どこかに所属したいという欲求のためだと思います。

所属した集団内での小さな関係性を強固にするために

他の集団を敵視してしまうことを私はよくやってしまいます。

意識しているつもりがなくても、

そのように行動してしまっていることがあります。

よくないですね。

「ヒトであること」

「日本人であること」

「障害がないこと」

いろいろな特別視を少しずつやめようと思います。

少しずつ、

私とあなた・私と動物・私と植物

これらの境界をぼやかしていくことができれば、

もっといろんな声が聞こえて、

視界も広がる気がします。

「私は幸せ=あなたは不幸せ」

から、

「私は幸せ=あなたも幸せ」

こういう社会になればいいと思います。


Posted by 燐-Lin-