「考える人」No.16/2006年春号(新潮社発行)に掲載された〈青梅の家〉〈土蔵の浴室〉の記事の一部を御覧いただけます。
「考える手」
木組みと土壁の家 後編
先人とのコミュニケーション
明治期の絵図を見ると、この場所には四つの立派な蔵が並んでいる。そのうち今も残っているのは三棟。真ん中の蔵は著名人の宿泊にも使われ、与謝野晶子も和歌を詠んでいるほどだ。しかし、その後は忘れ去られ、長い間、物置にしか使われていなかった。
「蔵湯」に改造されたのは、隣にある農具などが詰め込まれていた質素な蔵。浴槽を中に設けても建物が傷まないように、浴槽から立ち上る湯気を天井に近い換気窓から逃す工夫がなされた。
内壁を崩して部材を解体すると、百年前の大工がどんなことを考えて建てたかがよくわかると、深田さん。
「先人たちとの無言の・コミュニケーション。自分の仕事の十年後、百年後が予想できる。巧い下手よりも、丁寧に作っているか手を抜いているかが一目瞭然。木目細かく根を詰めてやっている明治時代の建物もあれば、表面は高価な材料を使っていながら、見えないところはいい加減な昭和初期の書院造りもある。この蔵は明らかに前者です」。
土壁は、柱間に木舞下地を作り、粘土に苆を混ぜ水で練って寝かせ、段階に応じて砂を混ぜたものを何度も塗り重ねている。工事は地面から水を吸い上げて崩れかかった土壁を部分的に剥がし、柱の根元の腐食した部分を切り落として継ぎ直し、もう一度土壁を塗り直す。
日本建築の壁と、ヨーロッパの壁には根本的な違いがある。日本では夏の蒸し暑さを防ぐことを念頭においたことから、障子やふすまは取り外せるようになっているし、壁面も柱を表面に見せて、木が息をできるようにした真壁が日本家屋の基本的なつくりだ。
大工の本領は「刻み」
藏の改修と同時に、深田さんは、七ヶ宿町の工房で、「上等湯」を復元するための「刻み」を進めている。木材を一気に組み立てる「建前」が大工にとって晴れの舞台だとすれば、その前の、どの木をどの部材に使うかを決め、組み立てるための継手・仕口を鋸や鑿、鉋でひとつひとつ加工していく「刻み」の工程は、大工にとって腕の見せ所だ。
尺貫法というモジュール
「刻み」は、まず描かれた番付表を元に、柱や梁、土台を選び、部材に墨付けをしていく。番付表とは、平面図に井桁に線を引き、縱に「いろは」、横に「一二三」と番号を入れて座標で示したもの。一升が三尺(約九〇・九センチ)四方になっていて、それを元に墨付けをする。番付表を見ると、つくづく日本人の身体感覚が尺貫法に根ざしていることがわかる。三尺が一間の半分で半間、これは襖や障子など建具の幅でもあり、畳の幅でもある。床の間や押入れ、納戸や縁側など日本家屋の「間取り」は、この単位を基本にしてきた。
垂直方向でも基礎から軒桁までの高さの寸法が入った矩計棒が物差しになる。墨付けは、尺を目盛った定規である指矩、そして指矩の長さを超えるものを計る尺棒、垂直方向の納まりを印した矩計棒を使って行われる。矩計棒に記された印をみれば、基礎から土台、下遣り、敷居、差鴨居、桁などの位置がわかるようになっている。
「金輪際」離れない継手
「継手・仕口」と一緒くたに語られるが、「継手」は二本の木材を同一方向に繋ぐ部分。「仕口」は直角または斜めなど異なる方向に繋ぐ部分のこと。
製材所から届いた木材一本一本の癖を見極めて、どこの場所に使うのが適しているかを見抜き、墨を入れていく作業は、棟梁の目が試される。どういう継手・仕口に加工するか、どのように木組みの構造を組み上げていくかをじっくり見極めながら鋸や鑿、鉋で刻んでいく。根気の要る作業だが、木造建築を千年以上作り続けてきた棟梁たちの知恵が凝縮されているといえる。
この日は、深田さんにとって「上等湯」の刻みを行う初日。「金輪継ぎ」で十三尺(約四メートル)の部材を継いで、「上等湯」の母屋や桁、棟木を作る。
「金輪継ぎ」は継手の中でも、主に梁、桁、母屋、棟木を継ぐときに使われる。
「蟻継ぎ」や「鎌継ぎ」といった単純な継ぎに比べて、手間はかかるが強度が最も優れている継手のひとつである。完成した状態からは、硬い樫の木栓が二本の木材を繋ぐ要となっているのがわかる。組み上がると「金輪際」離れないくらい頑丈だが、栓を外せば簡単に取り外し可能だ。
これから深田さんは、三十箇所、金輪継ぎを加工し、全部で三百五十本の構造材の刻みは、一千箇所以上となる。この作業は、こつこつ八ヶ月の時間をかけて続けられるのだ。
甦った郊外住宅
必要に応じて取り外し可能な継手・仕口は、古民家再生の大事な技術とも言える。それが生かされたのが、青梅市の羽田さん宅である。
「もともと青梅鉄道の幹部の避暑用に建てられた別荘。十五年間も空き家で、床と畳が腐って歩けなかった。最初はとても直せると思っていなかった」と、東京近郊で音響関係の仕事を営む羽田さん。この小さな家がいつ出来たかはっきりとした記録はないが、襖の裏側に張られた新聞記事や葉書から、この家が出来上がったのは大正十年(一九一二年)頃だと思われる。
「床が斜めになって傾くともう駄目、建て直さなければと現代人は思ってしまいますが、地面に近い土台や柱から傷んでくるのは、湿気が多く風雨に哂される日本家屋では当たり前。腐食していた全ての柱を継ぎ足して、床から下を総取替えすれば、そこから上はそのまま屋根まで使える」(深田さん)
床下がどのような状態なのかと床を外してみた。ところが基礎の石は土が被さっていて見えない。家の上台や柱の根元からの腐食は、基礎石に年月と共に土が被さり、その土を通して木が水分を吸い上げることから始まる。また、家の周囲に物を置いて床下を風が通らなくなったり、雨樋が詰まって雨が柱に直接掛かるようになると途端に家が傷み出す。
結局、家全体をジャッキで持ち上げ、差し歯をするように杉材を使って「追掛け大栓継ぎ」という継手などで約三十本の柱を根継ぎし、床を支える大引きと根太を新しく交換した。その跡は、新しい材木と古い材木の色のコントラストですぐわかる。「真っ黒だった柱や窓枠に紙やすりをかけてきれいにし、壁を塗り直すのは自分たちでやることにしました。粘土と藁を混ぜて半年くらい熟成してから塗り始めるので時問がかかりますが、その間にいろいろアイディアが浮かんできて楽しい」(羽田さん)
施主自ら半セルフビルドで修復して、もう少しで壊されそうだった築八十年の家は、縁側から梅の木の見える、居心地のよい郊外住宅へと生まれ変わった。