「シュタイナー学校の家作りのエポック授業」と「通過儀礼」(7)最終回

シュタイナー学校

お籠もりの夜の儀式

 そして教室に戻って、寝袋の準備を済ませてから、おこもりの夜の最後の儀式を行いました。部屋の中でまるくなって、子供たちに儀式のやり方を説明しました。

わたし「これから、子供たちだけで『天のしずく』に行ってもらいます。あたりはもう真っ暗です。ひとりだけ代表で蝋燭を持って行きます。みんなはその後をついて一緒に家の中に入ります。みんなは、行って帰ってくるまでひとこともしゃべってはいけません。声を出してもいけません。代表の子だけがふたつの言葉を言います。それは、『目を閉じてください。』という言葉と、『目を開けてください。』という言葉です。みんなが家の中で蝋燭を囲んで座ったら、まず家の中をよく見渡して、今、みんなとそこにいることをよーく感じてください。そして、代表の子が『目を閉じてください。』と言ったら、みんな一緒に目を閉じて、今日までみんなで一緒に家を作ってきたことをよーく思い出してください。そして、しばらく目を閉じたままで、自分の心を感じてください。代表の子がもういいな、と思ったときに『目を開けてください。』と言って下さい。そしたら、また静かにここまで帰ってきてください。帰ってくるまでに何が起こる分からないけど、決してしゃべってはいけないよ」
子供達「もし誰かがしゃべってしまったらどうなるの?」
わたし「それは、全部意味のないことになってしまうんだよ。決してふざけてはいけない。ふざけてやるんだったら意味がないんだ」
子供達「暗くて恐いなぁ。」
わたし「恐さを感じることも大切なことなんだよ」
子供達「うん……。みんなが一緒だから大丈夫だよ」

 いつも、隙を見ては悪ふざけをしている子供たちも、めずらしく神妙な顔をして聞いていました。夜の更けた静まりかえった雰囲気がそうしたのでしょうか。子供たちは、静かに教室を出ていきました。
 もしかしたら九歳という年齢は、こうした儀式を真剣に受け止められる最後の時間なのかも知れません。教室の中では、担任の先生と私が目を閉じて彼らの帰りを待ちます。とても長い時間のような気がする不思議な時間です。自分の息子や娘を初めて旅に出した親のような気持ちでしょうか。短い時間、短い距離であっても子供たちにすべてをゆだねた時間は少し不安を伴います。子供たちにとってもきっと始めての小さな冒険です。私達は今までの家づくりのこと、そして子供たちのことを思いながら待ちました。
 本当は、「天のしずく」の中で、みんなで一晩過ごさせてやりたいところなのですが、様々な制約がある中で、これがこの時「おこもり」を子供たちに体験させてあげられる精一杯のやり方でした。

 そしてやがて静かに教室に戻ってきた子供たちは、その静かな気持ちが壊れないようにそっと眠りにつきました。
 後日、私は子供達だけの時間の中で何があったのか、どんな気持ちだったのかその様子を知りたくて、何度か子供達に話を向けてみました。しかし子供達はまるで申し合わせたかのように、その時のことはひとことも語ろうとしません。聞いてみてもきょとんとしているだけで、まるでその時のことは、彼らの記憶から消えてしまったかのようです。それは寝ている間に見た夢を、目を覚ました途端に忘れてしまうのと同じようなことなのでしょうか。どんな些細なこともすぐ話題にする彼らが、あの時のことだけは、まるでなかったかのようにしているのがとても不思議です。ふと彼らはあの時、部屋を出て行ってから、どこか遠い宇宙にでも行ってきたのではないだろうか、とさえ思えます。棟上げの時に「こんなことが起こるなんて!」と興奮していた彼らとは、まるで正反対の様子なのですが、でもこのふたつのことには共通している何かがあるような気もします。
 ある方から、こんな質問を受けたことがあります。「ファンタジーやメルヘンを内的体験とすることと、通過儀礼のように現実に何かを体験することの違いは何でしょうか」と。私はその時は、うまく答えられなかったのですが、今はこんな風に思います。通過儀礼の中では、ファンタジーという「心の中の世界」と、リアルな「現実の世界」が、一瞬結びつくのではないかと。「カミの世界」と「ヒトの世界」が交錯する瞬間と言っても良いかも知れません。子供達にとっては、それが棟上げの瞬間であり、子供達だけの「おこもり」の時間だったのではないだろうかと思うのです。棟上げという「動」の感動。おこもりという「静」の感動。それぞれの感動の時が、彼らの中でファンタジーとリアル、ふたつの世界が出会った瞬間だったとしたら、子供達にとってその体験は本当の「芸術体験」または「至高体験」と呼ばれるものになったのかも知れません。

 最後の日の朝が来ました。まず顔を洗って朝食の準備です。パンに、お母さんたちの手作りジャムを付けて食べました。朝からみんなすごい食欲です。
 今日は完成祝いをやります。午前中は道具を片づけたり余った材木を整理したり、落ち葉に埋まった庭を、きれいに掃き清めます。「天のしずく」の前の庭は、完成祝いの舞台になります。
 完成祝いでは「古事記」の劇をやることにしました。実はその劇は、既に少し前に他の場で上演したものでした。しかし通過儀礼としての授業の締めくくりとしてとてもふさわしい内容なので、もう一度この場で「天のしずく」のために披露してもらうことにしました。
 「棟札」に、みんなの名前を書いてもらってから、家の中に取り付け、祝詞を上げて完成式を行います。そして式の最後を「古事記」の劇で締めくくります。子供たちは真っ白な衣装に身を包んで演じます。偶然ですが白は「死装束」の色であり、生まれ変わりの色でもあります。演じるのは、古事記の国生みの場面や、ヤマタノオロチ退治の場面です。荒ぶる神であるスサノオがヤマタノオロチを退治して成長して行く姿は、この時期の子供たちの内面をそのまま表現しているようにも思えました。
 完成祝いの後の直合では、お母さんたち手作りのお赤飯とごちそうを食べて、この家作りの授業は終わりました。

 「天のしずく」は、今もそこに建っています。そこがいつも開かれた場としてあるように学校にお願いしました。子供達が自由に出入りできる、遊んだり、時には静かに籠もったり、ある時は神様と交流することが出来る、心が癒される生きた空間としてそこにあって欲しいと思いました。

父兄からの手紙

 最後に、生徒のお母さんが書いてくださった文章を紹介させていただいて、終わりにしたいと思います。

 「昨年の家作りは子供にとって忘れがたい大切な宝物になっている様子です。
 出来上がった家(天のしずく)では、クラスで話し合いが必要なときにみなで入って考えてみたり、ろうそくをともしてお話をしたり、絵を描いたり、または周りでくつろいだり鬼ごっこをしたりと、場所としても精神的な支えとしてもなくてはならないものになっています。 
 家作りの前に秩父の通過儀礼の話を伺いましたが、睡眠と覚醒といった毎日のリズムや四季の移り変わりなどのハレとケ(日常と非日常)とを行き来する心と体についてのお話から、九歳前 後の子供の精神的発達を踏まえての家作りとは子供にとっては非日常であり、その演出のためには大人はなるべく姿を見せずにいるようにとの指示がありました。 
 普段から学校であったことをあまり口にしないので、親としては『何をしているんだろう、どんな気持ちで取り組んでいるのだろう』と気になって仕方がありませんでした。話の最中にも考え事をしたり、ほかのことに気を取られることがおおい子供ですが、家作りのことは、心の中で本当に真剣にとらえていることがわかりました。体験が沈潜して再び浮き上がってくるまで、尋ねるのはよくないと思いつつ、ついつい私も子供の内面を知りたくて、作業の様子を聞いたものです。
 彼にとって家作りの二週間は感動の連続だったらしく、『今日は何々をした』とか、『すごかったんだよー』とか、当時それはそれは興奮気味に語っていました。先生のお話でも家作りの クライマックスと伺っていた上棟式は特に誇らしかったようです。今回改めて感想を本人に聞いてみても、『棟上のときはすばらしかった』といいます。今でも感動的にそのときの様子を語り、『棟木をあげて、玄翁でたたいたんだ。なあーんにも考えてなかった。ただ一生懸命たたいたんだよ。うれしかったあ。でもあとで僕がたたいたところを見たらボコボコだったけど。』と懐かしそうにしています。壁土をこてで塗っていくのも楽しかったそうです。
 毎日毎日遅くまでの作業をものともせず、力いっぱい働いて、よく食べよくねむっていました。全体をきちっと仕上げるためには、一つ一つの作業を大雑把にやってはいけないとも学んだようですし、少しずつの作業を日々積み上げていくことで、自分に対する信頼感が生まれてきたようにも思えました。彼にとっての初めてと言って良い、責任を伴った作業の体験から得たものは、親が口をすっぱくして何十回となく言うことよりもストレートに心に響いたようです。また、大人が目の前で着実に責任をもった仕事をしていくのを実際に目にしたのも大きかったと思います。
 ほかの子供たちとも家作りについてよく議論していました。他のお子さんを送りがてら、運転に集中している振りをしてこっそり耳を澄ませていると、子供たちは、いつも少し興奮気味にそして感動を込めて、力強く話し合っていました。作業の喜びを帰り道に分かち合っている様子がうかがえました。ときおり建築中の家のそばを通ると、みなで『あの大工さんは釘袋をつける位置が違う」とか、「この家はボルトを使ってる』とか、いっぱしの意見が出ていました。自分たちの作業を振り返りながらほかに当てはめて比べて見ている様子が、とてもほほえましかったで す。
 最終日の神事(奉納の様子)を見られなかったのは本当に残念でした。みなで白い服を着て詩の朗誦で家作りを締めくくったそうですが、精一杯の仕事をやり終えて、輝く顔の子供たちを見たかったなあと思います。 
 いまでも知り合いが校舎の前を通ると、『あれが僕たちの造った家です』と自慢せずにはいられないようです。その誇らしげな顔を見るにつけ、家作りのステップを通して、確固とした柱のようなものが彼の心の中に打ち立てられたように思います。」

おわり(文・深田 真)

参考文献
「秩父の通過儀礼」 埼玉県立歴史資料館編 埼玉県立歴史資料館発行 1983年
「自由への教育」 国際ヴァルドルフ学校連盟編 ルドルフ・シュタイナー研究所発行 フレーベル館発売 1992年
「9歳児を考える」 ヘルマン・コェプケ 水声社 1998年
「日本空間の誕生──コスモロジー・風景・他界観」 阿部一 せりか書房 1995年
「日本民俗学」 宮田登 他 弘文堂 1984年
「子供の民俗学 子供はどこから来たのか」 飯島吉晴 新曜社 1991年
「一つ目小僧と瓢箪 性と犠牲のフォークロア」 飯島吉晴 新曜社 2001年
「人身御供論 供儀と通過儀礼の物語」 大塚英志 新曜社 1994年

シュタイナー学校の家作りの授業