「シュタイナー学校の家作りのエポック授業」と「通過儀礼」(5)

シュタイナー学校の家作りの授業
「通過儀礼」の癒し

 エンデの「はてしない物語」は、バスチアンという少年の通過儀礼の物語ですが、その中では「ファンタージェン」と「人間界」というふたつの世界について語られています。

 「ファンタージェンと人間界の境を越える道は二つ、正しい道と誤った道があるのです。ファンタージェンの生きものが恐ろしい方法でむりやり向こうにひきずられてゆくのは、誤った道。けれども、人の子たちがわたくしたちの世界にやってくるのは、それは正しい道なのです。ここに来た人の子たちはみなこの国でしかできない経験をして、それまでとはちがう人間になってもとの世界に帰ってゆきました。かれらはそなたたちのまことの姿を見たゆえに目を開かれ、自分の世界や同胞もそれまでとはちがった目で見るようになりました。以前には平凡でつまらないものとばかり見えていたところに突然驚きを見、神秘を感じるようになりました。ですから、かれらはよろこんでファンタージェンにきていたのです。そのおかげでこちらの世界が豊かになり、栄えれば栄えるほど向こうの世界でも虚偽は少なくなり、よりよい世界になっていたのです。今は両方の世界が、たがいに破壊しあっていますが、それを同じように、たがいに癒しあうことも出来るのです。」

「はてしない物語」 ミヒャエル・エンデ 岩波書店 1982年

 通過儀礼は子ども達に「死」と「再生」を体験させて心の成長を助けるだけでなく、「ヒトの世界」と「カミの世界」両方の世界を癒し健やかにする役割を果たしているのです。

カミと触れる危険を回避するための「儀式」
  
 「カミの世界」は自由で開放的な、溢れんばかりの生命力と創造力の源であると同時に、悪や死と直面する危険な領域でもあります。

 
 「絶対にファンタージェンにいけない人間もいる。」コレアンダー氏はいった。「いけるけれども、そのまま向こうにいきっきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタージェンにいって、またもどってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが、両方の世界を健やかにするんだ。」
「はてしない物語」前出

 ファンタージェンに行くこと、そしてまたこちらの世界へ戻って来ることは誰もが出来ることではありません。それは困難な危険を伴った冒険です。
 通過儀礼とは、人が危険な「カミの世界」に触れ、そしてそこで掴んだ生命力を携えて、また「ヒトの世界」へ戻ってくることを助けるための伝承社会が用意した儀式なのです。

 自我が、コンプレックス内の内容とエネルギーとを、自分のものとするために必要な水路づけの機能を果たすものとして、儀式というものがあると、ユングは考える。その例として、ユングは未開人の行ういろいろな儀式をあげている。たとえば、狩猟や戦闘などに出発するとき、いろいろと複雑な儀式を彼らが行うことは、もちろん他の目的も有しているが、ひとつは、そのような儀式によって、狩猟や戦いを行うに必要なエネルギーに水路を与え、それによって有効なエネルギーを引き出そうとしていると考えるのである。 
 このような「水路づけ」の機能をもつものとして、儀式を考えるとき、それはある意味では直接体験の危険性を防ぐものとも考えることができる。われわれが何かを体験するためには、それが自我の機能を破壊するようなものであってはならない。たとえてみれば、大量の水が一時に流出すると洪水になるだけであるが、われわれがそれを川に流し込み、必要な水路へと導くとき、それは灌漑や発電などに利用できるのである。ここに水路の役割は、水を防ぐものであり、水を導くものである。ここに、儀式の両面性がある。それは体験に導くものであり、体験から身を守るものでもある。
 人間が、自我の力を超越するものとしての神に向かうとき、多くの儀式を必要とするのもこのためである。人はできるだけ神に近く接したいと思う。しかし、その直接体験はおそらく人間を死に至らしめる程の力をもつであろう。命を失うことなく、出来る限り近く神に接しようとする、その最善の方法として多くの儀式が生み出されてきた。しかし、このような意味が不明になったとき、儀式は神に近づく手段としてよりは、人間と神との間の障壁としてのみ作用する。つまり、儀式は形骸となってしまう。
「コンプレックス」 河合隼雄 岩波書店 1971年

現代社会に伝承社会の知恵を生かす

 「天王焼き」や「鳥追い」など、かつて子供達が担っていた行事の多くは既に無くなるか形骸化され、現在では子供達のための通過儀礼のほとんどは失われました。
 それは、社会の在り方の変化に伴った必然の結果でもあるのですが、しかし社会が変化したといっても私たちが人間である限り、心の奥深くの在り方そのものは今も昔も変わりはありません。
 私たちの心と社会を健やかに保つために存在した伝承社会の知恵を、私たちはもう一度見直す必要があるのではないでしょうか。

伝承社会の世界観
 伝承社会の知恵をもう一度整理してみましょう。
一、私たち人間にとっては「ハレ」と「ケ」、「カミの世界」と「ヒトの世界」両方の世界が必要であると考えられて来た。
二、伝承社会では、このふたつの世界を頻繁に往還するための習俗を文化の中に持っていた。
三、このふたつの世界には、均衡を保ち、全体性を獲得しようとする力が働いている。
四、その均衡が保てなくなると、災厄を招く。
五、「カミの世界」は、悪、闇、死などを含む、私たちの生命力の源となる大切なものである。
六、しかし、その「カミの世界」に触れることは、時として大きな危険を伴う。
七、その危険を極力回避しようとする知恵として、儀式などの結界となるものが必要とされてきた。

 ユング心理学では通過儀礼無き時代にあって、心理療法の場面が通過儀礼的体験をしたり確認したりする場として捉えられています。そして心理療法では各個人それぞれの実現傾向に頼って通過儀礼的体験が行われるのを待つのです。
 しかし大人はともかくとしても、子どもにとっての通過儀礼的体験の場は、心理療法や個々人の実現傾向に頼るのではなく、出来る限りにおいて大人社会がその場を用意するべきであろうし、またこの時代の中でもその事は可能だと思います。
 かつて存在した、伝承社会としての地域共同体の多くは解体されてしまいましたが、現代においては地域共同体の変わりとなるものとして、「学校」の果たす役割は重要なものであると思います。「学校」には唯一共同体の変わりとなりうる可能性が残されているのではないでしょうか。
 但しその時に、私たちが越えなければならない大きな壁があります。子供達の通過儀礼が姿を消した理由は、単に地域共同体が解体したという理由からではありませんでした。ここまで述べてきたように、本来の通過儀礼には「悪」や「闇」や「死」などの一般には受け入れがたい要素が含まれます。そのために、風紀上好ましくない、教育上良くない、道徳的でない、危険である、などの理由で廃止されてきた歴史があるのです。ですからその壁を越えるためには、私達が通過儀礼の本当の意味をはっきりと自覚するする必要があります。
 通過儀礼とは私たちが「カミの世界」と出会い交流する儀式です。そして、ここまで「カミの世界」と呼んできたその世界は、実は「私たちの内なる世界」「私たちの心の中の世界」のことに他なりません。通過儀礼とは、私たちが普段は気付くことのない自分の心の中の深い部分と向き合い、その中にある「悪」や「闇」や「死」などを含んだ原始的側面と交流することで「影」を統合し、全き存在へと成長するための儀式なのです。
 ですから子供達のために通過儀礼を行おうとするならば、まず私達大人が「影」をも含んだ自らの「内なる世界」に向き合う必要があるのです。そのことを、大人の側がはっきりと自覚しその事に向き合う決意をしない限りは、子どものためにどのような場を作っても本当の役目を果たすことは出来ないのだと思います。
 ル・グウィン(Ursula K .Le Guin 1929-)の「ゲド戦記」は魔法使いゲドの成長の物語ですが、そこには私たちが精神的に成長するための課題が示されています。「影との戦い ゲド戦記Ⅰ」の中で、ゲドは影に追われてさまよいますが、影との対決を通して影の真の名を知ることになります。

 
 あわや、両者がぶつかろうとした時、それはあたりを照らす白い魔法の光の中でその色を漆黒に変え、いきなり、立ち上がった。人間と影とは声ひとつたてず向かい合い、立ち止まった。
 一瞬の後、太古の静寂を破って、ゲドが大声で、はっきりと影の名を語った。
「ゲド!」
 ふたつの声はひとつだった。
 ゲドは杖をとりおとして、両手をさしのべ、自分に向かってのびてきた己の影を、その黒い分身をしかと抱きしめた。光と闇とは出会い、とけあって、ひとつになった。
 (中略)
 ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。彼はそのような人間になったのである。もはやゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものにその生をさし出すことはないだろう。この世の最古の歌と言われる『エアの創造』にもうたわれているではないか。「言葉は沈黙に、光は闇に、生は死の中にこそあるものなれ。飛翔せるタカの、虚空にこそ輝ける如くに」と。

「影との戦い ゲド戦記Ⅰ」 ル・グウィン 岩波書店 1976年

(文・深田 真)
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