「シュタイナー学校の家作りのエポック授業」と「通過儀礼」(2)
民俗社会の中で、祭儀などを通して交流する、この「カミの世界」とは、どのような世界なのでしょうか。民俗学者の柳田国男と宮本常一が子供達の祭儀について述べている文章から、その世界を覗いてみましょう。
鳥小屋の生活
子供が大喜びで引き受けた役目は鳥追いで、その日の面白さは、白髪になるまで忘れずにいる者が多いのである。その理由のひとつは、どんな大きな声で耳の割れるほどわめいてもよかったこと、それから今ひとつは子どもばかりで、二夜も三夜も屋外の仮小屋に、親を離れて寝起き飲食するということであった。柳やヌルデの木を削っていろいろの飾りをつけた祝い棒がこのために銘々に与えられる。それでたんたんと横木をたたいて、心まかせに鳥を追う言葉を唱えるのが、いわゆる鳥小屋の生活であった。それ故にこの小屋をまたワアホイ小屋・ホンヤラ堂などという類のおかしな名で呼ぶ土地が多いのである。ただ正月の雪の中では、まだ駆逐すべき害鳥が眼の前にははいないのだから、当の本人たちががえって言葉の意味を理解せず、今はもうむやみに興奮して騒ぐだけになっているのである。
村の鳥追いの詞は誰が考えだしたか知らぬが、よほど古くから今あるものが行われていた。それを少しずつ子どもはまちがえて歌うのだが、
朝鳥ほほほ 夕鳥ほほほ
長者どのの垣内は
鳥もないかくちだ
やいほいばたばた
こういった文句が東北には広く分布する。
祝い棒の力
小児は全体に木切れを持って遊ぶを好み、それを持つとかならず少しばかり興奮する。なんでもないことのように我々は考えがちだが、実は隠れたる由来のあったことかも知れぬのである。ことに目にたつのは正月の十五日前で、これを子どもが持つと、ちょうど神主さんの笏や扇子と同じく、彼らの言葉と行いに或る威力がある、という風に昔者は今も感じている。単に目に見えぬ害鳥虫をあらかじめ駆逐し、または果樹を叩いてその木を豊産になしえたのみならず、若い女性の腰を打てば、みごとな子を生むとさえ信じていた時代があった。だから、
大の子小の子十三人云々
という歌があって、この祝い棒をダイノコと呼ぶ土地もあり、または、
男ぼっこ持ちやがれ
などという悪口に近い言葉さえもあった。東部日本ではヨメツツキまたは嫁叩き棒、九州の各地でハラメン棒、対馬でコッパラなどといったのも、すべてこの正月の祝い棒の名で、集めているときりがないが、いずれもこの木切れに女を孕ませる力があると思っていたからの命名である。それを手に執ると、実際もう常の心ではおられなかったのかと思う。
「こども風土記 母の手毬歌」 柳田国男著 岩波文庫
(「こども風土記」は1941年朝日新聞に連載)
鳥追い・かまくら・嫁たたき・もぐらうち
年中行事の中で、子供が多く参加するのは、一月十五日を中心にした小正月行事である。この日には、子供たちが家々をたずね、または村をまわってことほぎをしたり、除災の行事をする風習が残っている。その主要なものをあげてみても、鳥追い・かまくら・道祖神・もぐらうち・はらめうち・粥釣など、きわめて多種多様にわたっているのである。
子供が鳥追いを行うのは、東北・関東から北陸にかけて、濃厚に見られる。山形県飛島では、正月十五日に子供たちがヨンドリ小屋という小屋に。ヨンドリ棒と樽を持って集まる。ヨンドリ棒というのは、桑の木を二本、長さ一尺二~三寸に切って、その上端に冠をかぶった人の顔をかいたものである。子供たちは、この棒で樽をたたきながら、
ヨンドリホイホイ チョウドノ鳥ト
田舎ノ鳥ト 渡ラヌ先ニホイホイ
とはやしたてる。そして夕方くらくなると、二組三組にわかれて、ヨンドリ棒をうちならしながら、家々の門口たってその家の悪口をはやしたてる。ヨンドリは、夜の鳥のことであって、十六日には、朝鳥追いをする。明け方から家々をはやしたててあるき、小屋へかえってきてごちそうをたべ、夕方かたづけて家へ帰る。
鳥追いの言葉は、土地によってちがうけれども、鳥をおいはらうための呪言であった。昔は鳥だの虫だのが、今日よりもはるかに多く、それが作物をあらすことは、きわめて多かったようで、正月のまつりは、年のはじめにあたって、そういう害のあるものをよせつけないような呪術的な行事をおこなったのである。鳥追いをおこなっているところでは、子供たちが、小屋を作ってそこにこもり、小屋を中心にして、行事をおこなうところが多いのだが、雪の多い越後地方では、雪でこの小屋を作っているところもある。六日町付近では、雪を高さ三~四尺、方三~四尺に積み上げ、四隅に松や杉の枝をたてて櫓の形にし、子供がそこにのぼって、鳥追いの歌うのである。福島県海岸地方では、粗末な納屋風のものを作り、そこに子供たちが集まって、食い事をし、後は、火をかけて小屋をやくことが多い。
もともとこの行事は、鳥を追うことのみが独立した行事ではなく、苗代づくりから稲の刈り上げまでを一連のものとした稲作予祝い行事のなかのひとつである鳥追いが独立したものではないかと思われる。東京都徳丸の天神社には、きわめて古風な田遊びの行事が残っているが、その中に、やはり鳥追いがある。田植行事のとなえごとをしたあと、
今日はどこの鳥追い 大明神の鳥追い
今日はどこの鳥追い 地頭殿の鳥追い
今日はどこの鳥追い 若殿たちの鳥追い
と、おとな・禰宜・まどころ・御坊・女房・わらべ・みずうしたち・いなんぞう・よなんぞうの鳥追い言葉をとなえる。さてここの田遊びは、大人たちがおこなうのだが、早乙女の役目をするのは六~七歳の男の子である。
(中略)
またこの田遊びの中に、翁面をかぶった太郎次と、女面をかぶっておなかを大きくしたやすめが踊りながらでてきて、抱きあって交合の所作をする。これは稲のみのりを意味するものである。豊作のマジックに、生殖行為をからませた行為は、すこぶる多い。正月十五日に子供たちが三~四尺の棒をもって、女の尻を叩いてまわる行事が各地にあり、この棒をヨメタタキ棒(秋田)・ダイノコ(滋賀)・ダイノホコ(新潟)・ハラメン棒(鹿児島・宮城)・コッパラ(対馬)・ハルマンジョウ(熊本)・ヤチヤチ(富山)などといろいろにいっているが、いずれも男の子が、女の尻を叩いて妊娠するようにと、まじないしたものである。長崎県五島などでは、
コッパラもって子もって おなごん尻ばぶったたけ
ととなえている。
嫁祝い(石川)・オカタブチ(山梨)・ハラミ節句(鹿児島)・ハラメウチ(宮城)などの言葉はあるが、子供たちが、家々をまわって祝言をのべてあるくだけで、女の尻を叩かなくなっているところも少なくない。
そうして、しだいにもとの姿がうしなわれていくのだが、もとは生殖行為をほんとうにおこなうことが、作物をよくみのらせるものと考えたらしく、そういう習俗は、東南アジア各地に見られるが、日本でも、昭和のはじめころまで大阪府下の和泉地方では、田のほとりで生殖行為をすると、作物がよくみのるとて、麦のうれるころや、秋彼岸すぎに田の水をおとしてから、田のほとりで、夜男女がねることは、少なくなかった。それが人にかくれた野合でなかったことは、月夜など野道をあるいていて、しばしばそういう情景を見かけたことからもわかる。
宮本常一著作集第八巻 「日本の子供たち・海をひらいた人びと」宮本常一著 未来社
(初出 「日本の子供たち」岩崎書店1957年)
さて、これらの祭儀の中には子供達の興奮による叫喚、騒音、悪態、悪戯、猥雑さ、性的要素、更に他の行事の中には盗みや物乞いを行うものも見られ、祭儀の中で社会的秩序や静寂を打ち破る反社会的行為が許容されていたことが分かります。つまり「日常」の中では遠ざけられ『悪』とされている要素が「非日常」の「カミの世界」の中では重要な要素として位置付けけられているのです。(文・深田 真)
「シュタイナー学校の家作りの授業」と「通過儀礼」(3)へつづく