• 伝統構法木造建築 惺々舎

かつてあった一軒の木造日本家屋のことをお話ししたいと思います。

それは、昭和八年(1933年)に東京府東京市杉並区天沼(現在の東京都杉並区本天沼)に建てられた、当時はどこにでもあった小さな普通の木造日本家屋の話です。

そこには夫婦と子供ふたり、家族四人が住んでいました。
夫婦は私の祖父と祖母。子供は私の伯父と母です。
この家を建てた時、祖父は46歳、祖母は34歳、伯父5歳、母2歳でした。

家の広さは約20坪。新宿区の実家で暮らしていた祖父母が、約120坪の土地を借りて建てました。現代の土地事情からすると、とてもゆったりとした敷地の広さでした。
その場所は中央線の荻窪駅から北へ20分程歩いた所なのですが、当時、この辺りはまだ畑や田圃が多く、寂しい所だったようです。

その家をイラストにしてみました。

昭和初期の木造日本家屋:イラスト
昭和初期の木造日本家屋「天沼の家」     イラスト/深田 真

東南の角に簡素な木の門があり、家の南側の庭には沢山の木や草花が植えられていました。
桜、松、椿、柿、桃、紅葉、金木犀、山百合、つつじ、連翹、紫陽花、水仙、雪柳、南天、からす瓜・・・。

戦時中から戦後に掛けての食糧難の時には、この庭で薩摩芋や南瓜を作りました。空襲が激しいときは小さな防空壕も庭の片隅に作りました。

門から四つ目垣で仕切られた通路を通り、家の南に面した玄関へ入ります。
玄関の右側には茶の間があり、ご近所の人たちは玄関ではなく茶の間の前の小庭へ入り、濡れ縁から直接顔を出したりします。
茶の間の北側が台所で、その更に北側が風呂場です。
台所の東側には路地に面して勝手口があります。
勝手口を出た正面に、路地へ出入りする木戸があり、右側には井戸があります。左側の奥には竈があり、その手前に風呂焚きのための浴室への出入り口があります。

この家は祖母が間取りを考えたそうです。
祖母が学生時代に使っていたノートには、家の間取り図がいくつか描かれています。
大きな家。小さな家。詫びた茶室。
若い時から、自分が住む家を想像することを楽しんでいたのかも知れません。

そんな祖母が考えて作った台所はわずか二畳の広さでした。
そこに造り付けの収納庫と食器棚がありました。
台所西面の下半分が収納庫で、木製の冷蔵庫などが収まっています。
台所南面が食器棚になっています。

この家はどこも最低限の広さで作られているように思います。必要なものが約20坪の中にぎゅっとコンパクトに収まっています。

この家が新築された当時は、東京の人口、特に杉並区の人口が急激に増加していた時期に当たります。大正十二年(1923年)の関東大震災以降、昭和初期に掛けて、この周辺の農村部が区画整理され、水道や都市ガスの敷設も進められて住宅地へと変容して行きました。
この家の完成時点で、水道とガスが完備されていたのか否か、確かなことは分からないのですが、少なくとも完成後数年以内には水道もガスも引かれていたようです。
そのような、郊外の農村地帯が宅地化される境目の時期に建てられた家なので、農村型住宅でない、都市型住宅でもない、中間的な面白さがこの家にはあります。
まず、井戸が台所・風呂場・庭(勝手口を出た所)の三カ所にありました。
この地域には神田上水の水源のひとつである妙生寺池があり、一帯は地下水が豊富だったようです。
台所にはガスコンロが一台ありますが、外に竈もありました。
風呂は薪焚き釜が組み込まれた小判型の木桶の浴槽でした。この家が建った当時、風呂は銭湯を利用する家が多く、風呂付きの家はまだ少なかったようです。
便所はもちろん汲み取り式でした。戦後間もなくまで、この辺りは近隣に農家が多かったので、大八車を曳く牛を伴って定期的に下肥を引き取りに来てくれました。
竈や風呂焚き用の燃料とする薪は、庭の枯れ木や枯れ葉、剪定した幹や枝を使っていました。またビニールやプラスチックなどの石油製品が普及する以前は、包装資材は紙や木製でしたので、家庭ゴミのほとんどは燃やすことができる貴重な燃料になっていました。
家の照明には電気を使っていましたが、昭和30年代に入るまで電灯以外の電気製品はラジオしかありませんでした。

この家が面白いな、と思うのは、電気やガスや水道を使う都市型住宅でありながら、同時に電気・ガス・水道が無くても暮らしが成り立つように作られているところです。
昭和初期の東京に建てられたこの家は、周囲の自然環境とギリギリのところで折り合いを付けて成り立っていたように思います。
庭の木や草花を愛で、寿命が尽きた草木は風呂や竈や七輪で燃やす。大地の下を流れる地下水を汲み上げて飲食や風呂に使う。排便は近所の農家の肥料として畑にお返しする。家の中は季節の風が吹き抜けるように作られている。
今から六十数年前、戦後この国の高度経済成長が始まる前までは、都市周縁部において、エネルギー産業や都市施設などの近代的インフラに暮らしの根元をまるごと預けてしまうのでなく、自然環境の循環と接点を持ちながら、人の暮らしが成り立ち得たことをこの家は示しています。
(つづく)

深田 真